-----§私のあしあと§-----
 


     
 
呉高専陸上部創部50周年記念駅伝
2014/05/28

この駅伝の話を聞いたのは、4月中旬、OB会の近松氏が拙宅を訪ね、5月5日高専のグラウンドで開催するので、是非参加して欲しいと、案内をいただいた。始めはピンとこなかったが、次第にその企画の素晴らしさに、行くことをすぐ決めた。
4月29日、織田記念国際陸上に出かけた。中国新聞の小笠原運動部長から「記事を見てくれましたか?、先生も参加されるそうですネ!」とその日の朝刊を見せられた。本部席で暫くその話、谷岡・前の両氏も顔を揃え、いろいろ説明をいただいた。

時を待つこともなく5月5日はすぐやってきた。当日は、飯田氏のデラックスな車で約30分、先小倉に着いたが、4半世紀前の面影は無く、阿賀湾を一望する橋を往復、少し遊んで高専を訪ねた。
あの日から約半月、今考えると、この日は終日足が地についていなかった。私の生涯で稀に懐かしく嬉しい最高の日であった。
開会式は、篠部学生主事の挨拶で始まり、続いて目を閉じて聞いていた難聴の私は、隣に促されマイクの前に立ち、この企画に精根を傾けていただいた関係の皆さんに対し、心からの感謝を申し上げた。またこの競技場は、1967年3月竣工で、カーブを90Mにした最大の理由は、スポーツ傷害を予防する練習主体のグラウンドであり、併せて公認を取得したものであることに言及しておいた。

雨の止んだグラウンドに出て、先ずは最大の目的である「ケヤキ」との対面を果たした。対面する機会のなかったこの24年の間、立派に育てられ大きくなって、新緑が美しく眩しかった。
この木は、1973年全国高専大会準優勝を記念して植樹した「ケヤキ」である。植樹とは名ばかりで、割箸程度の幼木を一本。続いて二本目も、芝生の中に植えたのは植えたが、管理不十分。いずれも跡形もなく刈り取られ、泣くに泣けなかった。
その後、約7〜8年経過して、再び庭に植えていた少し大きくなった「ケヤキ」を三本目として持って行きグランドに植えた。
そして、間もなく、M科16期吉村氏が、かなり大きな穴を掘り、沢山の石ころを除け、クルマで堆肥を運んで植え付けてくれた。それがこの木である。
格別、最初から「ケヤキ」に拘ったわけではないが、欅の右は挙(コゾ)って、・挙(ア)げて・木はボクである。「ボクら陸上部は、コゾって・アゲて・すべて・のこらず・みんな」立派な人材に育ってくれるよう、私は心を込めて、この木に「願い」を託した。

当日は、昼ごろまで気温が低く寒かった。みんなに気を遣っていただき、現役の学生諸氏からの、防寒着・温かい飲み物などの配慮は、身にしみて嬉しかった。
本番の駅伝は、OBがスタートを担当したようで、以後一周前後を現役・地元の人・子どもさん・元オリンピック選手など、OBも交えてみんなニコニコしながら襷を継いで楽しんでいた。
300Mトラックを166周+200Mで丁度50KMになる。
私は26年在職に因んで、26Mジョギングして、皆さんには拍手しながら伴走していただきフィニッシュした。このようにして、念願の50キロ駅伝は大きな成果を挙げて終結した。

昭和40(1965)年から始まった、中国地区高専大会は、第3期校の呉としては、その4年後の第5回大会で同列に並んだわけである。言い訳をするようであるが、本気になったのはこのあたりからだと思う。
OB諸氏の走る姿を見て、26年間の練習や大会などの風景が、走馬灯のように思い出された。なかでもグラウンドに翻る部旗を見上げる度に荒川氏を思う。<学生寮の窓から覗いたトラックにブラッシュを引く、荒川さんを見て・・・吸い寄せられるように練習に出た>と・・・。次々とOB達の走る姿を見ながら、当時を思い出し、懐かしさいっぱいの一時でした。

振り返ってみると、地区大会では80点前後も取れば、クラブ活動としては成功だよ!と嘯(うそぶ)いていた私も、優勝の厳しさには、一喜一憂したものです。
優勝!を確信していた14回大会の結果は、同点(102点)の2位だった。かと思えば、16回大会の107点は予想をはるかに超えていた。この年、私は学生主事5年目、来年度に全国大会主管校を控え、陸上・軟式テニス・柔道・サッカーが優勝した。この頃が呉高専のスポーツは全盛期だったのかも知れない。
呉高専定年の年、そのシーズンを意識したのか、私は努めてグラウンドに出た、これで終わり、平成元年の陸上はアッサリ12回目の優勝で私を送ってくれた。
盟友M君の言葉に、「クラブ活動の成果は、顧問がグラウンドに出た回数に比例する。」と言った言葉を思い出した。

開会式で、この企画と開催に感謝の意を表したが、終わって、なお一層、その気を強くした。最後までシッカリと見届け、その労をねぎらうこともなく、その上、多くの方々の見送りをいただきながら、高専を後にしたことを、深くお詫びし、御礼申し上げます。
呉高専陸上部がOBとともに主催した、創立50周年を記念した駅伝は、大成功で終わった。
万事「終わり」は、即ち「始まり」である。
陸上部の新しい一歩は、すでに始まっている。言うまでもなく、陸上競技の原点は、走・跳・投である。原点を確認し、ご健闘を祈る。

参考事項に続く
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続・参考事項

※「欅について」
「ケヤキ」は、木目は粗いが材質強く美しく、くるいがすくないため、工作が容易で、家具・建具材に多用、さらに耐久性が強く大木に育つため神社仏閣の建築用材として貴重(大百科事典から)

※「私の一言」
グラウンドに植える木を、最初から「ケヤキ」と決めていたわけではない。庭の盆栽のケヤキの新芽が綺麗だったから、最初に挿し木をした時、辞書や百科事典を参照にして、これで<よし>と<独り合点>していただけである。

画像1:堀先生の揮毫
画像2:50KM駅伝晴れてゴールイン風景
画像3:約50年前の(1966)の秋、ハンガリーの首都ブタベスト市ピーブルズ・スタジアム・サブグラウンドの木(第8回欧州陸上選手権)
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5月18日消印 封書にて近松受取
別紙に手書きによる先般の謝意と、木本氏より米寿の記念に白米をいただいた旨の文章が書き添えられておられました。またシルバー川柳より入選作を比喩した先生なりの人生感も少し・・・






 
     


     
 
教えつつ 教えられ 26年 
2014/04/25

前顧問 堀先生より学校創立50周年記念誌に寄稿された(予定)原文です。

呉高専勤務の26年間は、私の人生の根幹を形成した期間であり、高専の存在そのものと併せて関係の皆さんに、深甚なる敬意と感謝を申し上げる。

呉高専一期生は、13倍近い難関を突破した119名、そのうち68名が寮生。私は毎週月・水の両日当直勤務を続けた。自習時間ともなれば、物音一つ無く真剣そのもの、その姿は長く続き、感動するとともに教えられた。

初年度は、9月下旬から増築工事があり、閉寮期間中は、犬の散歩を学生寮まで延長したが、あの年の瀬は寒かった。全国の大学で学生が反抗した「学園紛争」は、時を待たず呉高専にも波及した。それは昭和46年(1971)年春、最高潮に達し、学校の内外を問わず、集会等の許可制に反対する強い抗議行動がみられた。それは遂に責任者である学生会会長の処分に発展した。そこで事件はさらにエスカレート、処分撤回闘争に転じた。

その予備折衝を委任された私は、学生代表を数名に絞り数回話し合った。その結果、団体交渉は7月15日、会場は本館大会議室、参加者は学校側13名(校長以下幹部)、学生側36名を決定した。当日は2時間の予定が30分超過して終了。司会進行は私であった。(理由は学生主事補・第3学年以上の全学生の氏名を把握)

結論は、「終始双方の見解が討論されて終了した」とした。これは、「相身互い」を信条とする私の細やかな気配りでもあった。

その後、9月以降も話し合いに応じたが、学生に迫力なく、学生会長は自主退学。3年余りに及ぶ対立は集結した。この期間、我が家には夜の無言電話もあり、26年間で最も苦しい思いが残り、随分と教えられた。

在職中は、課外活動の重要性を説き、スポーツでは、人間がシッカリしてくると強くなる。それを「人間力」と言う。それは、人の生き方にもつながる、と言ってきた。8年前陸上クラブのOB会を復活し、その後年2回の開催が恒例になっている。(写真参照)

学校に期待するとすれば、創立50周年を契機に同窓生の交流を推奨され、卒業生のその枠を超えた集いが「人間力」の向上に資するようお願いしたい。

(執筆者略歴)

一般科目の体育担当で創立から定年退職まで26年間在職。その間主事補11年(兼任3年を含む)・一般科目主任4年・学生主事6年・教務主事2年。クラブ顧問は一貫して陸上競技部担当。


 
     


     
 
機械7期 藤原國宏君に捧ぐ
2009/01/01

夕陽に長く伸びた幾つかの影が、くり返し、くり返しトラックをまわっている。
その中に三十数年前の僕らの姿が見える。
シーズンも終わった初冬の夕暮れ、来季に向けてのインターバルトレーニングが続く。
三百メートルを走り切った僕らは、荒々しい息で肩を上下に揺らし、醜くゆがんだ形相は、視線の定まらないまま、茶色の芝生に落ちていた。
ふと横を見ると、そこにはいつも同じ顔をしたチームメイトがいる。やがて、誰からともなく、「あと一本、行くぞ」と肩をたたき、またスタート地点にむかって歩き始める。
自分の弱さ・強さ、走る喜び・苦しみを知りあう友情の時代があった。誰にも負けたくない、がむしゃらな時代があった。
そして今、時代が流れ、あの日友と見た、スタジアムに向かい、夕陽の中を走り始めようとしている僕らが見える。

寄稿
鶏内敬三
仲達賢二

 
     


     
 
広島の冬の風物詩 平成20年1月
2008/05/02

平成20年1月21日中国新聞朝刊の天風録に、ひろしま男子駅伝が話題に取り上げられていた。

「十二子で言えば、前回の子年で始まったこの大会は、今年から2回目で今や”広島の冬の風物詩”だ。長野・愛知・兵庫など強豪に拍手を送りつつ、広島をはじめ地元中国勢がもっと活躍してくれれば------と願う」と結んであった。

 戦後復興に貞献したと言われる国民体育大会は、近年少し影が薄くなったが、一方、駅伝は、日本独特のスポーツとして誕生、全国各地に普及し、特に近年、時代の流れとともに都市型に移行し、急激に脚光を浴びてきた。
 なかでも、都道府県対抗男女の駅伝は、メディアのおかげもあってその波及効果は、文化・経済など多岐にわたり、何よりも汗と熱気と迫力を茶の間に運び、故郷と地方の活力高揚のため大きな役割を果たすこととなった。

 男子駅伝開催を主管する地元広島としては、13回目にして単なるスポーーツ事業にとどまらず、広島の冬の風物詩として、認められるようになったことは、そのことを目指しながら創設に加わった関係者の一人として率直に大変嬉しい。
 しかし、前記、天風録にも嘆き節が聞かれるように、地元中国地域の男子駅伝の成掛まはかばかしくない。なかでも広島の落ち込みは大きい。

 昨年の大会を終わった段階で「一葉知秋」と題し、監督たる者常に謙虚さを忘れず本来の姿を見失うなかれ、と書いた。
 今年はどうか、期待して新聞を見た。そこには「悪くても6位入賞」。昨年と同じM監督である。あまりにも軽佻浮薄というか。結果は無残にも過去最悪の24位、ただ唖然とするばかりであっつた。こういう現象は女子も例外ではなく、監督は広島の実業団にきて4年目、別記記新聞切り抜きにみられる通り、責任感も使命感もない、無為無策ぶりである。 頼わくば来年に向けて、男女とも監督を一新され地元の期待にふさわしい選手編成を心掛けられ、地道な選手団の育成強化に尽瘁してくれるよう念願してやまない。
 そのうえで、第14回大会は、再び多くの参加者がふるさと応援団と一体になり、広島県民とともに「広島の冬の風物詩」として盛り上げてくれることだろう。

〈MEMO〉「肝心の昨日は氷雨にたたられた。こんなにも空を恨んだことはないほどだ」と天風録でも選手に同情してもらっているが、優勝タイムははじめて21分06秒と悪かった。逆に、47位は28分04秒過去最高、従って1位と47位の差も過去最高6分58秒。〈MEMO〉


第13回都道府県対抗男子駅伝各チーム監督の抱負とその結果

1 長野 チームー丸X奪還へ
2 愛知 3位以内を狙う
3 兵庫 4・5区がポイント上位入賞
4 熊本 連続入賞を目指す
5 埼玉 バランスとれた入賞目指す
6 大分 若い勢いで入賞目指す
7 千葉 過去最高の5位を超えること目指す
8 佐賀 20位以内を目指す
9 福島 若い力で入賞目指す
10 秋田 過去最高の15位を超えたい
11 栃木 若さとチームワークで、学生が力をつけた
12 三重 1区が鍵、流れに乗り20以内を
13 束東 チームに一体感あり8位以内を狙う
14 宮城 アンカーに15位以内で回したい
15 福岡 3度目の優勝、4・5区が鍵

中略

21 山口 土台ができた入賞を
22 神奈川過去最高の13位を狙う
23 茨城 実力をだして18位を超えたい
24 広島 最低でも6位以内
25 山形 20位台を目指す
26 静岡 27位以内を期待
27 大阪 目標は20位

中略

41 青森 初の30位台可能戦力
42 沖縄 今年も30位台入りを目指す
43 岡山 前半を10位台アンカーでさらに順位を上げたい
44 徳島 30位前後を狙いたい
45 新潟 20位台が目標
46 愛媛 30位以内を狙う
47 山梨 20位が目標

(注釈)
1〉仮に1位のタイムを2時間20分とし、第5回大会から13回大会までの24分以内の順位を平均するると20.1が出た。そこで前回同様20位をもって前半とし、以下後半とした。

2〉前半(1〜20位)で監督の抱負がはぼ的中したのは、長野・愛知・兵庫をはじめ佐賀・秋田・三重の躍進を含めると的中率15チーム、75%であった。

3〉後半では監督の願望的抱負がほぼ的中したのは、僅か3チーム程度でその他はすべて目標の順位に達しなかっかた。なかでも大きな誤算だったのは、入賞を狙うと言った京都・広島をはじめ群馬・岡山・岩手など14チームを数えた。
 
*昨年の12回大会の結果も同様であったが、本年はさらに監督の器量の差を深めたように思った。

 
     


     
 
「どうやっていたって思いもよらない病気になることがある」体験記 平成19年12月
2008/04/30

 81.8歳にして、私としては初めての大病であった。
 そのことを実感したのは、手術しなければ遠からず破裂する。手術したいが血小板不足で当分出来ない。従ってって相当の副作用を覚悟したうえで、薬に頼りながら数値を上げるほかあるまい、とのこと。さらにまた、見かけはともかく高齢者であることを考慮すると、合併症のりスクも懸念する必要があろう。なかでも、心臓や脳については、精密検査の必要性を認めざるをえない、との診察結果であった。

 そのため12月は、各種精密検査の実施と、血小板の数値や血圧などの体調安定に全力をあげて取り組むこととなった。

また一方、このような切羽詰まった病状は、精神的にもかなりシヨックであった。
それは、11月末のことであり、その4〜5日は逃げ場のない追い詰められた重圧の毎日であった。それでも一応の覚悟を決めて開き直ってからはそれほどでもなかったが。
しかし、毎日のように電話してくる長女と、それに応対する家内の心境は計り知れない不安で深刻なものだったに違いない、と推測する。
 腹痛を訴えた時(それは破裂したと考えられる)の連絡は、電話など写真のように大きく貼りつけてあった。「恐らくタメかも知れないが、l時間以内に処置出来ればたすかるかも知れない」(主治医談)であった。
斯くの如く、とにもかくにも、回りの人に心配をかけたことは間違いない。なかでも妻や子ども達の家族の心配は格別なものであり、これが家族というものであろうか、と素直にそう思った。
 家族とは、こういうものだという「常識」を私はもっているが、それは人によってかなり中身ほ違うだろう。自分の実感が他の人に当てはまるかどうかも分からない。でも私の実感している家族は身近で好きだ。そこで、心配をかけたという私の体験を淡々とまとめておくことも、生きさせてもらっている者の役割であろうか、と考えた。
と同時に私自身のボケ防止でもあり、以下記録にとどめることとする。

----------------初診から現在までの疾病歴・闘病歴は割愛させてください。(管理者)----------------

覚悟を決めて入院したが、広島のスポーツなかでも男子駅伝が近くなるにつれ、陸上のことが気になり、頭に浮かんだのがW(中国新聞編集局部長)さん、書きなぐりで思いつきの便りは、頼りにと思って書いた。12回ひろしま駅伝の地元広島チームの不甲斐なさに自ら筆を走らせてくれた「万全を尽くした布陣だったのか」に感動し感謝した私の感想文をコピーして投函した。早速返事がきた。情報不足の私は驚くことばかり、私の理事長・専務時代はアジア・国体を控え何とか体裁を保てたのは、周囲の皆さんのおかげだろう。
 21日が近くなるに従いやっぱり凡夫の浅ましさ、覚悟しているとはいいながら恐怖感は拭えない。こんなとき「お元気な様子安心しました」のWさんの冒頭の言葉は本当に嬉しかった。これ以上の翰ましの言葉なし。ありがたし。

 
     


 
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